さて、今回のメールレターでも、
ACについてお話ししていきます。

 

 

<目次>
●ACと自覚する3つのきっかけ
●自分が悪いという思い込みは、どこからきたのか?
●ちょっと自分を崩すと呼吸が楽になる

 

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●ACと自覚する3つのきっかけ

 

ACという言葉を知った人が
カウンセリングを求めて訪れます。

その人たちをいくつかのタイプに
分けることができます。

 

1つ目のタイプは、

私のブログや書籍など、ある一節の、
ある言葉に惹かれて来る人です。

 

「親はいいんですよ、別に。
私、親が大好きなんです。
でもほら、先生のこのブログの一節、
これって私のことじゃない」

 

と言う人です。

 

実は、問題は親との関係ではなく、
恋人との関係だったりするのです。

 

その人は何か専門家からの
援助を求めていたのですが、
自分がどういうところに行ったらいいのか
分からなかったのです。

 

このような時に、
自分が援助を受けるきっかけとして
ACという言葉を使うのです。

 

 

2つ目のタイプ、

これは男性に多いのですが、
自分に子どもが生まれることになった、
もしくは生まれたのをきっかけに
ACの自覚を持って、
カウンセリングに訪れるのです。

 

自分だけなら、
そして妻と自分だけなら、
今のままでもいい。

 

でも新しい生命が誕生し、
自分が父として影響を与える存在になった時、

やはりあの親から受け継いだものを
整理しなくては・・・
と思うのです。

 

子どもには幸福になって欲しいと
思うからです。

 

子どもは何の責任もなく
生まれるのですから、

 

「あの母からされたことを、
子どもには絶対にしたくない。
そして、知らず知らずに母と同じものが
自分の中に育っているかもしれない」

 

カウンセリングに訪れている
28歳の男性はこのように語り、
涙を流しました。

 

 

自分が親になることを自覚した時、
同時に親との問題が浮上し、
ACと自覚するのです。

 

これは女性よりも、
親になるのに覚悟を要する「男性」に
多いタイプです。

 

 

そして3つ目が、

長年親との関係で苦しんできた人です。

 

こんなこと
他人に分かってもらえそうに
ないものとして、
ずっと心の中に秘めてきたのです。

 

でも、のどに刺さった小骨のように
いつもチクチク痛んでいた親との関係が、

このACという言葉によって、
カウンセリングで整理できる、

ということがわかったのです。

 

私が通感しているのは、
ACという言葉がいくら批判されようとも、

この言葉がなかったら
救われなかった人が
膨大にいることだけは事実だ、
ということです。

 

この事実をもってしても、
私はACは肯定されるべき言葉であって、
決して病気とか、
若者批判の理由づけに使われる
言葉であってはならないと思うのです。

 

ACの人たちは、
そのほとんどが社会的には
ごくごく普通に日常生活を一生懸命に
送っている人たちです。

 

別に病気でもないし、
家庭はそれなりにうまくいっています。

 

でもその人たちが感じている種の
生きづらさというものは、

自分に合う服は11号なのに、
7号の服を着ているような人生なのです。

 

7号サイズの服を着て、
窮屈で息苦しくてつらくても、
「もっと別の洋服はないかしら」
と思ったとき、

このACという言葉によって、
もう一度親との関係を整理し直すのです。

 

親を自分の物語の中にちゃんと組み込む。

 

もしくは、
組み込み過ぎていた親をそこから出していく、
あるいは分離していく。

 

そういう作業をすることで、
自分は楽になるのではないかと思った人。

 

そういう人たちが援助を求めて
私のカウンセリングにやって来るわけです。

 

 

●自分が悪いという思い込みは、どこからきたのか?

 

なぜ、ACの人たちは、
自己評価が低いのでしょうか?

 

私たちは例えば、
突然だれかが死んでしまったような時、
必ず理由とその意味を考えます。

 

「なぜ死んだのだろう?」

「なぜ死ななくてはならなかったのだろう?」
と。

 

それが愛している人であればあるほど、
それを考えあぐね、

 

最終的には、
「私が悪かったのではないか?」
と思うのです。

 

これは、
人間がその苦しみの意味や理由を、
説明せずには生きられないからです。

 

説明できないと、
私たちは本当に狂ってしまうのです。

 

「神」のような超越した存在が
いなくなった現在、
私たちはその意味を説明するのが
困難なのです。

 

そして、
最終的説明として、
「自分が悪いから」と考えるのです。

 

 

小さい頃から、
突然何か分からない苦しみを与えられる。

 

例えば、
親の感情のおもむくままに、
自分が悪いわけでもないのに、
説明もなしに殴られたり怒鳴られたり、
ということを繰り返されると、

「これは一体何だろう」と
3歳なら3歳なりに子どもは一生懸命考えて、
「自分が悪い」と整理します。

 

そう考えるとすべて説明がつきます。

 

阪神淡路大震災の避難所で、

「自分がおねしょをしたから、
地震が起きたのかな」

と語る三歳児がいました。

 

小さな子どもが、
自分の何がいけなかったんだろうと
考えた末の理由が、
おねしょだったのです。

 

地震でもこういうことが起きるのですから、
小さい頃は、
特にアルコール依存症者のいる家庭の中で
子どもが過酷な体験をすると、

子どもは、
「自分が悪いからだ」
という整理をどこかでしてしまうのです。

 

この「自分が悪いからだ」
という思い込みが続くと、

「私はこの世にいてはいけないのではないか」
という感覚につながっていきます。

 

これは、根深い自己否定感であり、
ふっと沸き上がる自殺衝動にもつながります。

自分という存在を、
この世から消してしまいたくなるのです。

 

 

親は子どもを
たたいてはいけないと思いますが、

もしたたいてしまってもその後で、

「お父さんがたたいたのは、
こういうことだったんだよ」

 

とか、

 

「お母さんがあなたをたたいたのは、
こうだったからよ。ごめんね」

 

とフォローをすべきでしょう。

 

何のフォーローもなく、
まるでそれがなかったことのように
されてしまうと、

子どもはその体験を
どのように整理したらいいのか
分かりません。

 

そして、
子どもの中に起きてくるのが、

 

「自分が悪いのだ」

「私はこの世にいてはいけないのだ」

「私がこの世にいるから、
このような不幸が起きるのだ」

 

という感覚なのです。

 

ナチスの強制収容所に入れられていた
ユダヤ人たちは、

少しずつ収容所の官吏や看守に対して、
「彼らは自分を愛しているんじゃないか」
と思うようになったということです。

 

そして、
自分もその人たちに愛情を
感じるようになったのです。

これはどういうことでしょうか。

 

孤立無援の、
絶対的に閉鎖された状況の中で、
意味不明の苦しみを与えられていると、

人間は、狂わずにいるために、
そんな中でも愛情という一筋の幻想を
必要とするのです。

 

なんて悲しい、
そして恐ろしいことでしょう。

 

ナチスの強制収容所を、
例えば、
家族に置き換えたらどうなるでしょうか。

 

子どもにとって家族というものは、
絶対に逃げられないものです。

 

そして、
閉鎖的な状況であり、親は絶対です。

 

その中で、
意味不明の苦しみを味わった時に、

子どもはユダヤ人と同じように

 

「お母さんやお父さんは、
私を愛しているから、ああいうことをやるんだ」

 

と思うようになるのです。

 

幼い子どもに、
性的な虐待を繰り返す父親がいても、
その子どもたちは
「お父さんは私を愛しているから、
こんな苦しいことをするんだ」
と思うのです。

 

ですから、父親が捕まった時にも、
子どもは決して父親のことを悪く言いません。

 

それはかばっているのではなく、

「父親は自分を愛している」
と思っているのです。

 

「愛しているから、
父親は自分にそういうことをするんだ」

という神話を持たなければ、
その子は生きられないのです。

 

このようなことが、
ACの人たちが親からの支配を
愛と思っていたり、

なかなか親から離れられないことの
背景にあるのではないでしょうか。

 

人が意味不明の苦しみにさらされることが、
いかに残酷なことかを
分かっていただきたいと思います。

 

 

●ちょっと自分を崩すと呼吸が楽になる

 

回復に必要なのは、
ちょっと言葉が変かもしれませんが、
「崩す」ということです。

 

何か確固たる目的を崩すということが
とても大切なのです。

 

今まで自分が持っていた、
「これはいいかな」というものを
ちょっと疑ってみることです。

 

ACや共依存の人たちは、
今まで信念を持っていて、
とても頑張って生きてきた人たちです。

 

その人たちが行き詰まった時、
今まで持っていた
思い込み、頑張り、信念を、
相撲のけたぐりのように、
スッと足を払って、
よろけるくらいにするのです。

 

まるっきりひっくりかえして
正反対になってしまうと、
また逆転が起きるので、
ちょっと崩すという感じでやっていくのです。

 

私はACの回復に
最終目標があるとは思いません。

 

だいたい、バラ色の人生なんていうものは
あるはずがないのです。

 

思い込みとか、確固たる信念とは、
張りつめた空気のようなものです。

 

張りつめると少し怖いところがあります。

パンとはじけると割れてしまうからです。

 

ちょっと崩すと緊張がやわらぐ、
やわらぐとスッと空気が流れる、
気流が起きる、
といった感じになります。

 

そうすると私たちは、
楽に呼吸ができるようになるのです。

ですから、
できるだけバラ色の人生などと考えずに、

「ちょとましな楽な生活」
ぐらいに考えましょう。

 

「母との関係が変わると、
世界も色も変わると思うんです!」

 

などと意気込むと反転したときに
「もう駄目だ!」という
絶望になりがちなのです。

 

 

私のカウンセリングでは、
問題解決型のカウンセリングを
おこなっていますが、

 

頑張らなければできないことを
おこなうわけではありません。

 

無理なく簡単にできることをおこない、
今までの生活のバランスを
「ちょっと崩す」ことにあります。

 

崩したものが積み重なって
「偉大な目標」になったら、
またそれをちゃんとつついて崩す、
という繰り返しなのです。


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今回の内容は、

以下の書籍を参考にさせて頂きました。

ありがとうございます。
「夫婦の関係を見て子は育つ」著:信田さよ子(梧桐書院)
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