さて、今回のメルマガでも、
僕のカウンセリングのお悩みで多い、
AC(アダルト・チルドレン)について
お伝えしていきます。

 

 

<目次>
●トラウマとACの関係
●ACは生き延びるためのテクニック

 

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●トラウマとACの関係

 

「心的外傷」と訳されている
「トラウマ」という言葉があります。

 

このトラウマとACが
どのように関係するかということも、
整理しなくてはいけないでしょう。

 

トラウマについては、
日本の精神医学や臨床心理学でも
大きな話題となりました。

 

阪神淡路大震災が起きたことが、
トラウマという言葉が日本で
マスコミを通して広く認知される
きっかけになりました。

 

アメリカでトラウマという言葉が
社会的に話題になったのは、
まぎれもなくベトナム戦争以降でした。

 

徴兵されてベトナムに行った人たちは、
さまざまな悲惨な状況を体験し、
両足を失った人もいます。

 

しかし、
それは本人には何の責任もないわけです。

国家の命令で
自分たちには何の責任もないのに、
多くの人たちが
この上もない苦しみに遭遇するときに、

それを国家として救済する言葉が
必要になってきます。

 

徴兵されて見た光景の
フラッシュバック
(生々しくよみがえってくること)
に苦しめられている人は、

 

それが戦争のトラウマによるものだと
説明されることで、

その苦しみの理由と、
苦しいことは当たり前なのだという
「自分に責任はない」ことが
証明されます。

 

一方で国家の側も
「トラウマ」を原因にすることで
巧妙に免責されるのです。

 

つまり、
ベトナム戦争の復員兵たちが、
未だに苦しめられている多くの精神症状に対して、
トラウマによる後遺症と診断するのです。

 

そう言われなければ
戦場に多くの兵を送り出した家族も
納得しないだろうし、

アメリカという国の根幹が
崩れてしまいます。

 

ある意味でトラウマは、
国家の救済者として生まれた
概念だったのではないかと思います。

 

 

阪神淡路大震災もそうです。

 

PTSD(心的外傷後ストレス障害)
という言葉が何度も新聞紙上に登場し、

地震は目に見えるものばかりではなく、
私たちの心にも
被害を与えるのだということが
強調されました。

 

トラウマという考えの大きな特徴は、
この免責性ということです。

 

免責性とは何か?

 

本人に責任はないということです。

 

これはACも全く同じです。

つまりACの人たちは、
機能不全家族の中をとりあえず生き延びます。

 

選択肢などないのです。

 

あるとすれば死ぬか狂うか、
体の病気になるかです。

 

そのいずれでもなく
その家族を支え適応して育つことで、
なんとか生き延びていくのです。

 

ところが、
原家族を離れたとたんに
不適応になってしまうという悲劇が現われます。

 

この悲劇を今までは、
本人の問題だ、
本人の性格だとしてきました。

 

私は、
「それはないのでは」と思うのです。

 

ACの人たちへの
「あなたの苦しみはあなたに責任はない」
というメッセージと、

 

トラウマの持つある種の免責性
「あなたに責任はない」
ということは実は、同じことです。

 

いつもすべての原因を自分に求め、
責め続けている人にとって、
この免責性は救いと感じられ、
楽になるきっかけを与えてくれるのです。

 

しかし、
ACとトラウマという言葉は
重なる部分もあるでしょうが、
全く異なる次元の言葉なのです。

 

なぜなら、
トラウマはあくまで「心的外傷」であり、
客観的実体にもとづいた
精神医学的な言葉です。

 

それに対する「治療」があるだろうし、
その「心の傷」をどうするかという
問題へと焦点が移るでしょう。

 

でも、ACは病気ではないので、
医学の言葉ではありません。

 

ACは当事者の主観によるものであり、
また周囲との関係をいう言葉です。

 

そこが決定的な違いです。

ACは自分で認める言葉です。

そしてトラウマとは、
精神医学的な実体を前提とする
「心的外傷」という言葉です。

 

もちろんACの人たちの中に
心的外傷を経験したという人もいますし、
PTSDに苦しんでいるという人もいます。

 

トラウマは、
わが国の専門家の間でも
まだ共有されているとはいがたい状況です。

あまりにも「分かりやすい」ために、
すべてが説明できてしまうので、

「安易な決定論になる」
として危険視する意見もあります。

 

今後、脳の研究が進めば、
もう少し心的外傷について
裏づけがなされるでしょう。

 

その点でまだまだ日本においては、
この「トラウマ=心的外傷」
という言葉は発展途上だと言えます。

 

私は精神科医ではありませんし、
医療の外側で仕事をしています。

 

したがってできるだけ
「病気」「病理」という視点から
ものごとをとらえないようにしてきました。

 

トラウマという言葉も私の仕事から見ると、
あまりにも万能の言葉のようで、
消化不良なのです。

 

ですから、
使う場合も慎重に考えた上のことにしています。

 

トラウマを「再処理されない記憶」
と考えると腑に落ちる気がします。

 

時間とともに風化し無害なものに
変わっていく記憶とは違い、
いつまでも生々しく、
思い出すたびに
呼吸が苦しくなったりするような記憶。

 

これは脳における記憶の再処理が
凍りついたように止まってしまっている
ことによって起きるといわれています。

 

現在の私はこのように、
ある特殊な記憶の状態として
トラウマをとらえています。

 

 

●ACは生き延びるためのテクニック

 

ACの人たちはつらい現実、
過酷な経験を生き延びるために
いくつかのテクニックを身につけています。

 

それを具体的にみてみましょう。

 

【離人感】

 

過去に受けた非常に大きなショックを
思い出させるような現象があると、
自分から現実感覚をなくしていく。

これは一種、
この世に生きていながら
生きていないような感覚なのです。

 

つまり、
この世が苦痛に満ちていて、
その中にどっぷり浸かっていたら

自分が死ぬか狂うか、
病気になってしまうかする前に、
現実に生きていないような感覚を
自分で生き延びるために
身につけていくのです。

 

目の前に人がいて話をしていても、
現実に関わっている感じがしない。

いつも透明な膜を通して
他人とかかわっている感覚なのです。

 

【否認】

 

アルコール依存症の家庭に
非常に多くみられる、
あったことをなかったことにしてしまう
ことです。

 

SFや推理小説には、
殺人現場で胸を刺されて
血を流した人が、

20分後に行くと、
跡形もなくなっているという
シーンがよくあります。

 

あれは白日夢だったのか、
という感じです。

ところがアルコール依存症の家庭は
そういうことが日常的なのです。

 

例えば、
父親が酔っぱらって足で母親を
蹴ったりしていると、
子どもは隣の部屋で震えながらそれを聞いて、
ここで眠ってはいけないと思います。

 

母親が「ウウッ」と呻いたら
助けに出ていかないと、
自分の家族は崩れてしまうと
思っているうちに寝てしまったりします。

 

そして、
次の日の朝が問題です。

 

まるで何もなかったかのように
なっているのです。

 

母親はいつも通り
朝ごはんのトーストを焼き、
父親は会社に出かけます。

 

この何もなかったようにするテクニック、
これが否認というものです。

 

これは子どもが身につけるというよりも
親が毎日やっていることですが、
子どもは非常な混乱をきたします。

 

一体あれは何だったのだろうか?
夢だったのだろうか?
自分の感覚が間違っているのだろうか?・・・と。

 

親はそれについて一言も説明はしません。

 

昨夜あったことと、
今朝自分が起きて見ていることが
不連続なのです。

非連続というのでしょうか。

自分の頭の中は不整合の状態です。

 

この非連続性とは
心が健康を保つのには危険なものです。

 

夫婦でけんかをしたら、
その顛末を
「こうこうで、こうなってこれで仲直りしたんだよ」
と子どもに説明する義務が親にはあります。

 

これによって子どもは、
ものごとのつながり、
連続性、整合性を獲得するのです。

 

もし、それをしないで
この否認を繰り返していくと、
子どももそれに適応するために、
あったことをなかったことにするという
否認のサイクルに入っていきます。

 

 

【透明人間になる】

 

神戸の少年事件の
「第二の挑戦状」には、

 

有名になった
「僕は透明な存在だ」
という一節があります。

 

それと同じかどうかは分かりませんが、
自分が透明人間になってしまうような
感覚を抱く人がいます。

 

つらいことが起きても、
窓を開けて風が吹き抜けるように、

透明人間になった自分の中を
苦痛がサーッと通り過ぎていくような
感覚によって、
苦しい現実をやり過ごすのです。

 

両親のけんかが始まると

「あ、またこれが始まった。
さあ、透明人間になろう」

と、つらい現実を通り過ごしてしまう
人もいます。

 

つまらない学校に毎日通う。

そんな生活を過ごすには、
授業中は自分が透明人間になったと
思って机に向かっているという
高校生もいます。

これも一つの現実のやり過ごし方でしょう。

 

 

その中で、
とりあえず死にもせず
狂いもせず病気にもならないために、
こういう方法を使って
私たちは現実に適応し、
生き延びるのです。

これが独特の感覚を作りだします。

 

 

【天然ボケ】

 

「天然ボケ」という言葉がつくられています。

 

テレビで今人気があるのは、
的外れでトンチンカンな受け答えをする
タレントです。

 

若いタレントや中年のおばさんが、
全く想像もできないような
ズレた発言をすることが笑いを集めます。

 

あれは、
今の現実を生き延びるテクニックを
示してくれているでしょう。

 

ああやってふるまえば、
とりあえず皆に笑われながら
私たちは生きられるのだという見本です。

 

今の若い人たちは、
天然ボケのテクニックをテレビで身につけ、
天然ボケでズレまくって
この現実をやり過ごそうとしているのでは
ないでしょうか。

 

正面きって現実に立ち向かうと、
車が直行しドーンと
壁にぶつかってしまうように、

いろいろな困った問題が起きると言うことを
皆分かっているのです。

 

だからとりあえず、
立派な生き方なんかいい、
ボケて、ズレて、

笑われながらやり過ごすことが大切だと
若い人は考えているのでしょう。

 

 

【仮想現実】

 

過酷な現実を生き延びるために
自分でつくりだすいくつかの方法や
それによって身につけた感覚は、

バーチャル・リアリティ(仮想現実)に
惹かれる感覚と
共通するのではないかと思います。

 

もともと
バーチャル・リアリティというのは、

例えば、原子力発電所などで、
原子炉の操作をする時に、
こちらにいながら操作をすると
向こうでロボットが動くという、

 

つまり、

私たちの現実だけでは
抱えきれないような問題を、
仮の現実を作りだすことで
コントロールする言葉だったのです。

 

いつの間にか流行語になってしまったのは、
アニメやゲームの世界に入り込む人が
増えたからです。

 

『エヴァンゲリオン』というアニメは
熱狂的にファンをひきつけました。

そういうアニメやコミックの世界に
現実感を抱き、
そのような世界で生きるということは、
これはもともとあることでした。

 

芸術というものは
そのために生まれてきたのかもしれません。

 

過酷な現実の中で、
私たちが生き延びるために
作りだしたものかもしれません。

 

しかし、
あの若者の熱狂ぶりは
これまでの私たちの想像を超えるものでした。

 

まるで仮想現実が
彼らの現実そのものになってしまったような
感じを受けたのです。

 

現実の世界に居場所がないと
感じる若者が、
仮想現実の中でこそ生きられると
思ったのでしょうか。

 

人気の秘密は
「アニメによる仮想現実によって、
現実を生き延びる」
ことにあると考えています。

 

これは若者にとっての現実が、
我々の想像を超えられるものが
あることの証明でしょう。

 

私は、どんな嗜癖にも
必ず積極的な意味があると思います。

 

ACの人たちを、
生き延びてきたのだという
肯定感と共に語るように、

依存症の人たちは
依存症であることで
生き延びてきているのです。

 

ですから、
嗜癖は逃避ではありません。

 

だとすれば、
バーチャル・リアリティに
惹かれるこということは、

その人たちはそれがなければ
生きられないからです。

 

逃避するというのではなく、

むしろ仮想現実に自分たちを
仮託しないと生きられないような
現実というのは一体何だろうか、
というように

視点を転換していかなければならないと
思います。

 

私は、40~50歳くらいの人たちの
置かれている現実は、
はっきりいって非常に生きづらいのが
実情だと思います。

 

仮想現実をつくりだすことそのものが
現実からの逃避である
ということではないと思います。

 

ACと自覚した人たちが
私たちに教えてくれるのは、

多くの人が天文学が好きであったり、
少女マンガやSFや恐竜が好きであったりと、

別の現実を生きることによって、
自分が生き延びてきたということなのです。

 

ところが、
バーチャル・リアリティに入っていても、
私たちは必ず現実に戻ってこなければ
なりません。

 

お手洗いにも行かなければいけない、
お風呂も入らなければいけない、
ご飯も食べなければいけない。

 

現実に返ったときに、
違和感や苦痛がある場合には、
やはり何かを変えなければ
いけないものがあるのかもしれません。

 

つまり、
現実とバーチャル・リアリティの間に
どのようにブリッジをかけていくかが
問題になるでしょう。

 

一方の足は仮想現実に置いてもいいけれど、
一方の足は現実に置くという、

そのバランスをどのように
回復していくかということが
問われるべきだと思うのです。


「心のストレッチルーム」では
このメールマガジンで、
あなたを応援しています!(^^)!
http://www.kokoro-str.jp/

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今回の内容は、

以下の書籍を参考にさせて頂きました。

ありがとうございます。
「夫婦の関係を見て子は育つ」著:信田さよ子(梧桐書院)
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